何かと否定されることが多くて、自己肯定ってやつを自分の中で育ててこなかった。
否定されないよう「いいこちゃん」であろうとした。
そうこうしてるうち「(他人の中で)自分はどうしたい」が薄くなってしまった。
「自分なんていなくなればいい」と思っていた10代前半。
「20歳になったら、片割れに人生手渡す」と思っていた10代後半。
太宰の「人間失格」にこれは自分だ、自己投影した10代後半。
「結婚し子を成す(もしくは働く)という一般的な生き方」とは外れたことの罪悪感と自己否定の20代。
否定していたことと、肯定しそうあろうとしていたものは実は否定すべきものである矛盾に気づいた30代。
そして今、見ないふりをしてきた自己肯定の低さを自分に突き付けられている。
そして今「こうはなりたくない」と思っていた人と実のところは同じではないのかとも思うようになっている。
「喜怒哀楽」も、実際自分は本当にそう感じているのか、そう感じるように思っているのではないか。
今、片目の視界を歪ませているフィルターのように、感情にもフィルターがかかっているようなそんな感じ。
そんなとこまで自分を信じられなくなっている。
自己否定と自己不信。この空っぽ感。
自分が自分を肯定しなきゃ、いつまでたっても肯定感なんて得られないのに。
「冬が厳しいほど春の芽吹きは生命力に溢れ、華々しく生まれる年」の寅年なのだから、なんとかしなきゃ。自分のこういう固執する壁を越えなきゃ。
ダメなとこ分かってんだから、乗り越えられる・・・はず、だろーと。
って、こーいうこと書いてる時点で逃げてる感満載だよな。はー。